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同性愛の日本史【後編】

かつて、美少年は神の化身と崇められていたのです

教科書はいっさい教えてくれませんが、日本はかつて、世界でもまれに見る同性愛天国であり、男どうしの恋愛が政治を動かし、文化を発展させてきました。神話の時代から始まって、明治まで、その伝統は連綿と受け継がれてきたのです。男を愛した歴史上の有名人がこれだけたくさんいたということは驚きですし、感動でもあると思います。

こちらの記事は同性愛者の日本史【前編】の続きです。【前編】をまだご覧になっていない方は、そちらからご覧ください。

 

【隆盛期】戦国時代


織田信長

豊臣秀吉

上杉謙信

武田信玄

石田三成

千利休
 応仁の乱で幕府や将軍の権威がガタ落ちになり、各地の守護大名も弱体化。実力で台頭してきたのが戦国大名です。
 この戦国大名に「扈従(こしょう)」して身の周りの世話をしたのが「小姓」です。最初は「小性」と書き、戦国までは「児小姓(ちごこしょう)」と言いました。
 小姓の中でも最も有名なのが、織田信長に仕えた森蘭丸です。18人いた小姓のリーダーでした。
 当時の戦国武将たちは、全員が男も女も抱く、いわば両刀(バイセクシュアル)。豊臣秀吉だって信長の長男・織田信忠と関係がありましたし、石田三成を深く愛していました。徳川家康でさえ、井伊万千代(直政)を寵愛していました。この時代、男と性愛関係を結ぶことはいたって標準、当たり前のことだったのです。
 お小姓に象徴されるこの時代の男色が発展したのは、妻や側室が戦場に行けないから、代わりに小姓が殿様の相手をしたからだ、という説があります。これは違っています。性の代用品などではなく、戦国武将が美少年を侍らせ、小姓を抱くのは、女性とは別の、独立した性愛文化でした。その背景には、古来からの稚児信仰(稚児は菩薩の化身)があります。また、戦国大名の婚姻はほとんどが政略結婚です。小姓や家臣たちとの間にこそ、自由な恋愛を求めたのではないかと考えられます。

 上杉謙信は美少年をたくさん侍らせていました。昨年の大河ドラマの主人公・直江兼続が最愛の人だったことは有名です。
 ライバルの武田信玄もたくさんの小姓を抱えていましたが、最愛の男子が春日源助(のちの高坂弾正)でした。
 美しい小姓はファッションであり、風俗でしたが、やがて主従間の固い結束を生み、強力な戦闘集団を作り上げていきます。戦国大名と忠臣はそれぞれ菊の契りによって結ばれ、主君のためなら命も厭わない優秀な武士が養成されていったのです。

 フランシスコ・ザビエルは、日本の状況を見て、僧侶たちの男色を「言語道断の情欲」「憎むべき悪徳」と増悪したと伝えられています。ザビエルを喜んで迎えた恩人、大内義隆にさえ、「王様、あなたの行いは畜生にも劣ります」と箴言したそうです。大内義隆の愛人はイケメン・陶隆房(晴賢)でした。隆房の兄もイケメンで、こちらは義隆の父・大内義興の愛人でした。

 「茶の湯」や「茶道」がなぜ、戦国武将の間で流行したのか、武士でもない千利休がなぜ秀吉に切腹を命じられるのか、ほとんどの人には理解できないでしょう。
 唇を間接的に触れる茶道の回し飲みは「他人ではなくなる」ための儀式だ、と熊倉功夫氏は『茶の湯の歴史』で指摘しています。茶の湯とはセクシャルな行為なのです。南方熊楠は自著で「目のさめるような美少年が目の前にいたが、相手が皇族だったため、茶の湯だけで満足した」という記述を残しています。それは、男色の代償行為だったのです。
 こうした茶の湯の総元締(カリスマ)が千利休でした。秀吉が千利休に切腹を命じたのは、彼が茶道という男色のセレモニーを通じて権力を裏で操るフィクサーになってしまったからではないでしょうか。茶道の指南役とは、男色の指南役でもあります。戦国の男色ネットワークを牛耳る利休のパワーは、秀吉をも怖れさせたのです。

 「若道(にゃくどう)」=若衆道という言葉は戦国時代にすでにありました。これが縮まって「衆道(しゅどう)」になりました。衆道は、念者(主や年寄り)と若衆(美少年)との愛と忠節によって成立します。念契とか義兄弟とも呼ばれました。
 日本独特の男色文化である衆道にモラルや精神性を見出したのが、民俗学者の南方熊楠です(熊楠自身、少年を愛していました)。熊楠は、衆道には「浄愛」と「不浄愛」があると言います。不浄愛とは、性的な快楽のみを目的とする男色のことであり、浄愛とはまったく別物だとし、衆道における崇高さを力説しました。浄愛という清く正しい男道を見出すことができるのが、戦国時代でした。たとえば、森蘭丸が有名なのは、本能寺の変でともに戦い、信長とともに死んでいったからです。命を賭けて信長に忠節を捧げた姿に、人々は感動したのです。

 戦国時代の「天下三美少年」と言われるのが、蒲生氏郷に仕えた名古屋山三郎(歌舞伎の祖として知られています)、木村秀俊に仕えた浅香庄次郎、そして秀次の小姓・不破万作です。不破万作は小笠原信濃守など、多くの武将をもとりこにしました。
 石田三成は寺院の稚児から身を起こした男で、寺に立ち寄った秀吉に茶を振る舞った(三杯の茶)ことがきっかけで、秀吉の寵愛を受けます。
 秀吉が亡くなったあと、家臣団は三成を中心とした文治派(エリート官僚系)と、加藤清正らの武断派(軍事体育会系)に分裂しましたが、豊臣恩顧の武将たちは、三成が社長の秘書兼愛人にしか見えませんでした。だから加藤清正らが寝返り、三成は関ヶ原に散っていくことになったのです。

【爛熟期】江戸時代 


若衆歌舞伎


徳川家光

徳川綱吉

赤穂浪士

松尾芭蕉

色子と客
 戦乱の時代が終わろうとする頃から、「かぶき者」と称する異様な風体の一団が出現します。髭面で奇抜なファッションの無頼な連中です。「男伊達」という男同士の義理を重んじ、マッチョを競い合いました。茶道と同じようにキセルを共有することで唇と唇を重ね、衆道の契りを交わし合い、男色を好みました。最初は京の町に現れ、やがて江戸でも多数、出現しました。
 同時代に人気を呼んだ芸能が「かぶき踊り」。歌舞伎のルーツです。当時、芸能と売色は一体のもので、遊女たちが踊るかぶき踊りは「遊女歌舞伎」と呼ばれ、若衆が演じるのは「若衆歌舞伎」と呼ばれました。1617年頃から京都で始まり、1624には江戸に伝播しました。しかし、1629年には遊女歌舞伎が禁止され、若衆歌舞伎が江戸時代のエンターテインメントの中心になりました。
 三大将軍・徳川家光も、若衆歌舞伎の大ファンでした。彼は踊りが大好きで、自ら女装したりもしていました。
 二代将軍・徳川秀忠でさえ、丹羽長重と契り、小山長門守という美少年を愛しました。
 家光といちばん深い仲だったのが、堀田正盛です。春日局の縁者で、13歳から家光に仕えており、亡くなるとその日に殉死しました(これこそ武士の道。衆道です)。堀田正盛のライバルだった寵童が、酒井重澄です。同じように寵愛されていた坂部五左衛門という若者は、風呂場で小姓といちゃついているところを家光に見つかり、斬り捨てられたという逸話が残っています。
 
 1637年、キリシタンへの弾圧が厳しくなる中、島原の乱が起こりました。そのリーダーとなったのが16歳の少年、天草四郎です。四郎はもともと小姓か小草履取り(接待係の美少年)だったと言われています。島原の農民たちは、美しい四郎が「神の使いとして16歳の少年が現れ、キリシタンの王国へ導く」という伝説を体現する少年だと信じていました。新羅(古代朝鮮)では「少年は神と交霊するシャーマン」であるという信仰があったそうで、おそらくその影響を受けているのでは?と推測されます。

 1687年、徳川綱吉によって生類憐れみの令が発布されます。
 四代将軍・徳川家綱の治世に若衆歌舞伎と殉死が禁止されますが、それは衆道に起因する殺生を封じるためでした(「かぶき者」は乱暴だったのです)。生類憐れみの令もその延長戦上にありました。(かぶき者は犬をも食べるのです)
 一方、綱吉も、大奥の美女だけでは飽き足らず、若衆を150人も抱えていたという説もあります。江戸城の「桐の間」という部屋にはイケメンがずらりと控えていて、将軍の寵愛を受けた美男子の中から側近に抜擢され、出世していく者も多く、その筆頭が柳沢吉保でした。柳沢邸には将軍好みの美少年が20人余りも囲われ、作法や教養、体重管理などを徹底されていたそうです。

 1701年、元禄赤穂事件(赤穂浪士の仇討ち、吉良邸討ち入り)が起こります。
 吉良上野介浅野内匠頭長矩の小姓を欲しがり、それが叶えられなかったことが遺恨の種になったという説もあります。天下太平の時代にあって、仇討ちそのものが衆道の発露と言えます。仇討ちを強硬に主張したのが、かつて小姓として浅野の寵愛を受けた片岡源五右衛門磯貝十朗左衛門だったのです。吉良の側にしても、小姓として仕えた清水一学が主のために奮戦しました。忠臣蔵とは、すでに時代遅れとなっていた衆道の物語なのです。武士はすでに役人として主君に仕えるものになっていましたが、このような古い武士道のセレモニーが行われたのは、その心情が主君への愛にあるからです。

 松尾芭蕉は、上流の出身ではなかったのに、どうして俳聖=俳句の神様と崇拝されるまでになったのでしょうか。伊賀国上野の松尾与左衛門の次男として生まれた芭蕉は、13歳の頃、藤堂家に武家奉公に出されました。利発で美しい子だった芭蕉は、そこで藤堂良忠に寵愛されるのです。良忠は無類の俳諧好きで、芭蕉は良忠のおかげで俳諧のサロンに出入りし、綱吉の和歌の先生であった北村季吟に習う幸運に恵まれて、奉公人ながら最上の教育を受けることができたのです。主君の死後、江戸に出た芭蕉は、粋で色気のある芸人に成長します。そして、憧れの西行にならい、パートナー杜国(万菊丸)と連れ立って諸国をめぐる旅に出るのです。

 1652年、若衆歌舞伎が禁止されましたが、幕府が目をつけた理由は、前髪のある若衆の踊りがあまりに悩殺的だからでした(剃髪の武士たちは前髪にフェチシズムを覚えたのです)。翌年、剃髪をした「野郎頭」での「物真似狂言尽」というストーリー劇だけは許可されるようになりました。現代に連なる「野郎歌舞伎」の誕生です。役者たちは頭につけ髪をしたり、あの手この手で前髪を再現しようとしたそうです。
 また、この頃、売色のシステムが整ってきました。役者をしながら売色をする「色子(舞台子)」、舞台に出ないで売色のみを行う「陰子(陰間)」、地方巡業に参加して売色を行う「飛子」と、きちんと分業され、歌舞伎は一大娯楽産業に成長しました。陰間が独立した「陰間茶屋」も誕生しました。
 その背景には貨幣経済の発展による庶民の経済力の向上がありました。
 18世紀半ばには江戸の町に10カ所の男色フーゾク街があって、230人もの色子や陰間がいたそうです。中には女装する者もいました。
 歌舞伎の方も、若衆歌舞伎が禁止されると、女形がもてはやされるようになりました。女形は主に色子出身の美男が演じていました。
 やがて前髪への愛が失われていくにつれ、衆道は衰退していきました。
 『武士道のエロス』の氏家幹人は、「武士が<戦う男>から<役人>になるにつれ、男色習俗が社会的有効性を失っていったのは、当然の帰趨と言える」と語っています。
 1841年、天保の改革によって、陰間茶屋が禁止されました。
 稚児→垂髪→喝食→小姓→若衆→陰間と、連綿と続いてきた男色文化は、ひとまず終止符が打たれることになりました。

【衰退期】明治時代


西郷隆盛

土方歳三
 明治維新はマッチョな同性愛者の革命でした。
 幕府を倒した薩摩藩こそは、戦国武将以来の衆道をかたくなに守ってきた集団だったからです。西郷隆盛は体朝工作の協力者だった僧侶の玉井月照といっしょに入水自殺を図ったことがあります。また、南方熊楠は、西郷隆盛と大久保利通の確執の原因が男色の争いにあったと言っています。奄美への島流しの後、西郷は誠中組という若手結社のリーダーになりますが、村田新八という美青年がいて、村田を大久保と奪い合ったのだそうです。
 薩摩には「郷中教育」という、戦士を育成する特有の教育制度がありました。郷中は若い男だけの硬派な集団で、少年は「稚児」、元服すると「二才(にせ)」(武士の二才は「兵児二才(へこにせ)」)と呼ばれました。二才と稚児は衆道の念者と若衆の関係で、ともに学んで精進しました。兵児二才の組織は、家柄と美しさで特別な少年を選び、「稚児様」とか「執持(とりもち)稚児」と呼んで崇拝しました。時に化粧をし、美しい衣装をまとい、他郷の二才たちに奪われないように警固されたりしたそうです。これが、薩摩の結束力の秘密だったのです。(この辺りは『武士道とエロス』に詳しく描かれています)
 維新で活躍した土佐藩も、同じような男色の風土があったそうです。宮武外骨は「同性契交の士風は薩南のそれに似たものがある」と述べています。
 中央の武士が失ったスピリットが、地方ではちゃんと生きていたのです。

 大島渚の『御法度』では、新撰組の隊士たちの男色が描かれていますが、実際、新撰組では衆道の交わりがあったことが近藤勇の手紙から窺えます。
 鳥羽伏見の戦いで負けた新撰組は、服装を洋風に、内面を武士道にリニューアルして、生まれ変わります。そして市村鉄之助という小姓を入れたのです。市村が土方歳三の遺影を箱館(函館)から命がけで運んだことは有名です。

 戊辰戦争が終わると、政府はことごとく武士を否定する政策を打ち出し、薩摩の武士たちは激怒。西南戦争が勃発します。薩摩藩の士気の高さに政府軍は驚きます。この戦いを通じて山県有朋は、武士道(衆道)の精神を学び、日本の近代軍にもそれを注入したと言われています。ドイツの民俗学者フリードリヒ・クラウスや氏家幹人も「清やロシアに対して勇敢に戦ったのは、兵士同士の愛の絆だ」と述べています。

 武士道の男色は明治の学生の間に伝播します。その様子は森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』に詳しく書かれています。これは、欲望に突き動かされる姿をありのままに描こうとする自然主義に対抗し、日本的な衆道の精神をぶつけたものと言われています。これが、戦国以来の衆道の最後の名残りとなります。

 明治末期~大正時代になると、欧米志向(キリスト教に基づく思想)の影響の下、同性愛は「性的倒錯」「変態性欲」と言われ、急速に衰退していきます。
 大正デモクラシーにあっては、男は真面目に働く労働者が理想とされ(女は良妻賢母)、同性愛は(その伝統や精神性を無視して)快楽に溺れる悪徳だとみなされていくのです。そうして、同性愛者は地下に沈潜し、裏の風俗として生き延びていきます。

 日本には世界に誇る男色文化があったということも忘れられ、歴史の教科書はそれを隠蔽していきました。
(『大奥』の最終話のように、絢爛豪華な日本の男色文化は、武士道の時代の終焉とともに幕を下ろすのです)

最後に


若衆歌舞伎の踊り手。華やかに
着飾り、男たちを魅了する…
とても他人とは思えません
 かつて、男色は僧侶の神聖な儀礼であり、公家の政治手法であり、武士の崇高な契りであり、時には一般庶民の一大エンターテイメントにもなりました。千年もの長きにわたって花開いた男色文化の伝統は、維新革命以降、次第に「変態」扱いされ、貶められ、隠蔽されていったのです。
 近代以降、同性愛は「自然の摂理に反する」「異常性欲」「性的倒錯」などと批判されてきましたが、歴史的に見れば、男どうしで愛し合える時代の方が普遍性を持っており、目くじら立てて同性愛を弾圧する社会の方こそが「病的」だということが、見えてくると思います。 

 稚児(美少年)が「菩薩の生まれ変わり」とまで言われ、崇拝の対象だったということは、ちょっと驚きでした。
 また、念者(年長者、主君)が小姓(美少年)を愛し、教育者、庇護者でもあるという関係は、古代ギリシアと同様です。(これこそがプラトニック・ラブです)
 この「年長者と少年の関係」は、形を変えながらも、現代にも脈々と受け継がれていると思います。年上の方が年下をリードしたり、面倒を見たり、保護者的に振る舞ったりということが暗黙の了解になっているのは、やはりそういう古来の関係性の名残りと言えるはずです。

 『BL新日本史』の「あとがき」には、こう書かれています。
 「日本古来の男色文化を今のゲイと安易に比較したり、同様に論じたりすることはできません。両者の間には本質的に異なる何かがあります。それは、ひとことで言うと、精神性です」
  確かに、武士道(衆道)とは男の理想的な生き方であり、人生哲学でした。今の時代を生きる僕らには、愛する者を守るために命を賭けて戦い、いつでも死ぬ覚悟があるという、激しく、凛とした姿は、理解できないかもしれません。が、自分を養い育ててくれた人に忠誠を誓い、一生をかけて恩を返そうとするのは、愛してくれた人のために何かしてあげたいという気持ちの表れなわけですから、そのコアの部分は僕らと変わらないハズです。この本の著者が「現代のゲイには精神性が無い」と言外に匂わすのは、きっとリアルなゲイの姿を知らないせいにちがいありません。

 武士道(衆道)が現代のゲイと最も異なるのは、女性を排除したうえで成り立つ(男尊女卑の封建的な社会でこそ栄える)関係だったという点ではないかと思います。
 また、年端もいかない少年と性的関係を持つことの問題というのが全く顧みられていないわけですから(具体的にどのような性的行為が行われていたのかはわかりませんが)、「あの時代はよかった」などとは迂闊に言えません。
 
 しかし、たとえば、昔の男色家たちが若い男の子たちの舞い踊る姿に「萌え」、男の子たちも役者(あるいはウリ専など)を志し、パトロンを見つけようとしていたというのは、なんだかとても他人事とは思えないし、二丁目のゲイ文化とシンクロするものがあると感じました。文化の面でも、今へと連綿とつながっているんだと思います。

 それぞれの時代の「男色ライフ」や、男たちの愛の物語や、美しい生き様に、そうした歴史上の人物に思いを馳せてみると、「日本史」というものが俄然、色鮮やかな、身近なものとして立ち現れてくることでしょう。
 そして、こう思うのです。僕らは「この広い世界で独りぼっち」なんかじゃないし、「百年も千年も孤独だった」わけでもないと。歴史の大きなうねりの中で、僕らの前には多くの偉大な先輩たちがいたし、僕らは彼らから多くのことを受け継いでいるのです。